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平成ピストルショウについて

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平成ピストルショウ又ハ平成史上最大薔薇色幸福見世物人生

 『平成ピストルショウ又ハ平成史上最大薔薇色幸福見世物人生』

 平成が終わるとなった時に真っ先に浮かんだタイトルはこのゲームでした。昨年末、古いHDDに残っていたデータを引っ張り出したので遊びなおしましたが、自分の人生の十傑から決して外れることのない作品であることを再確認した次第です。

 個人的には全人類が触るべき作品だと思っているのですが、フリーゲームながら現時点で公開は中止されており、また、再公開は事情を考えるに恐らくあり得ないのだろうなと思い、少し寂しいです。たぶんプレイ動画とかはあると思うのですが、繰り返し遊ぶことに意味があると思うので、もし触れられる機会があるならぜひ直接遊んでほしい作品です。

 この作品の好きなところとか、この作品に纏わる体験について、色々思ったことを書いておこうと思います。

研ぎ澄まされた表現の結晶

 「平成ピストルショウ」は自分の人生のゲーム十傑に入って不動であるという話は冒頭でしました。なんせ触れたことのあるゲームが多くはないので、入れ替わることが頻繁にありますが、この作品は間違いなく外れないのだろうなと思っています。

 この作品は、「表現」という行為をゲームという手段を用いることで行い、それをものすごく丁寧に突き詰めたものだと思っています。その瞬間瞬間の快楽を面白がるゲームというよりは、体験を通じて消化することで心の中に残ることに面白さのミソがあるというか。

 一人の人間の人生を、極彩色と音楽の中で多幸感たっぷりに描き上げる。ゲームのシステムはシンプルで、表面的にはちぐはぐに縫い合わされたように見える世界だが、あらゆるものにきちんとした意味が存在し、物語的に完成されている。ぱっと見では「ゆめにっき」のような異世界徘徊ゲーに見えるが、進むにつれてすべての理由が解き明かされていき、この世界の正体が明るみに出る。正体を知ってからもう一度遊ぶことで、主人公ハートの行いを正しく追うことができる。

 この構造を生み出すための表現のクオリティが非常に高く、当時のツクールを使い倒し映像として見ごたえのあるものに仕上げているミュージカルシーンは圧巻でした。ツクールでミュージカルって。しかも音ハメって。当時の技術レベルで表現を語ると作者の苦労が云々とかいう話になってしまうんですけど…それぞれのキャラクターに持ち味を与える演出は本当に見事で、未だに舌を巻いてしまいます。

 そして、あらゆる要素がただただ主人公について描くために存在している。娯楽的で鮮明で少々爛れたようにも感じられる見世物的人生を、広大なマップと演出をフルに使って効果的に描いている。無秩序に見えるが、それこそが真実。こんなにしっかりと考えて、それに対して正直に描くことのできる作品ってそうそう存在しないんじゃないかと思います。

 色彩と、音と、言葉と、時間と、空間と、プレイヤーというメタ的な主観と、その体験的な行為を操る。ゲームというのは本当に総合的で複雑な表現方法だと思うのですが、これらの要素一つ一つにキラキラしたものが散りばめられていて、本当に美しいゲームだなと感じます。そして、表現の妙を読み取るために何度も遊んでしまい、それが新たな気付きを与えて、面白く思わせてくれる。体験として組み込まれているものは変わらないのに、何度も掘れるだけの深さがあって飽きの来ないゲームというのは素晴らしいなと思います。表現かくあるべし。

 多層的で実がぎっしり詰まった表現物。何度も繰り返し見たくなる映画。そういう作品だと思っています。

 

(ネタバレ)選ばれし者なんていない

  さて、作者のぱるん氏のブログにも書かれていたのですが、この作品がリリースされた当時のレビューの大多数は「人を選ぶ作品」との評だったと思います。

 自分の場合、ぱるん氏の作品との出会いは「kinder」が最初で、その後作品の発表に合わせて「平成ピストルショウ」を遊んだ記憶があるのですが、当時は全くの同意見でした。実際、ネットのどこかにそのような評を書き込んだような気がしています。「人を選ぶ作品だけど、自分は物凄く好きだ」と、そのような内容だったかな。

 この「人を選ぶ作品」というコメントについて、まるで主観的に「この作品は癖が強いけど自分はそれでも”選ぶ”ぞ」と偉そうなことを言いたげになってしまうのですが、プレイヤーが獲得している感覚は「この作品に選ばれた」というものなのではないかと思うわけです。この感覚についてちょっと色々と思うところがあるわけで。

 自分は大槻ケンヂ率いるバンド・筋肉少女帯が好きなのですが、彼らがリリースした「レティクル座妄想」という鬱屈人間御用達のアルバムがありまして、このアルバムに収録されている「ノゾミのなくならない世界」という楽曲に以下のような歌詞があります。

ラジオで流れたあのメロディ
ノゾミの心を引き裂いた
ノゾミは突然恋をした
カリスマミュージシャンに
この人あたしをわかってる
あたしの心を歌ってる
恋したわ

 ある種の毒の含まれた表現を受けたとき、特に一般的に教育上よろしくないなんて言われるような内容(生死、性愛、暴力、本能的欲求に強く迫るもの)が含まれていると、「こういう作品が好きな自分って特別なのでは?」というような一種の陶酔感が生まれたりすることがあるかと思います。「ノゾミのなくならない世界」の歌詞の主人公であるノゾミは、大嫌いな世界の中で自分を理解してくれる音楽に出会い、まるで世界で一人きりの特別な自分を見出してもらったかのような感覚から恋に落ちるのかと思いますが、カリスマミュージシャンはカリスマミュージシャンなわけで、彼の音楽に熱狂する人間は少なくはないのです。

 同アルバムに収録されている「蜘蛛の糸」という教室の隅っこ向けの楽曲があるのですが、これは現実世界の筋肉少女帯のライブにおいて、全国の教室の隅っこが大合唱するわけで、決して社会からあぶれた人間は特別でも何でもない、一大勢力なのだと思います。カラオケにも入っているし。教室の隅っこで鬱屈としながらどす黒い感情を抱える人間たちは、ちょっと周りと上手くいかなくて、そのズレを「上下」と勘違いして人を見下し、ちょっと反社会的な毒に酩酊するような、非常に多くの人間の一人に過ぎない。

 「レティクル座妄想」というアルバムは、こういった教室の端っこの「選ばれし者」たちに対してドギツいパンチをキメていて、アルバムを通して聴くことで盛大に嘲笑ってくれます。「選ばれし者」たちを集めて、理解者として・教祖として君臨した挙句に、結局はそんな君たちも己惚れただけの凡夫に過ぎないと突き落として、所詮はみんなダメ人間だと馬鹿にしてくれるのです。

 と、ここまで書くとまるで「レティクル座妄想」の感想ばかりで「平成ピストルショウ」はどこに行ったんだよという話ですが……自分が抱いていた「平成ピストルショウ」に対する「選ばれた」「恋した」という感覚は恐らくこの万人が持ち得る感覚に等しいのではないか、という話をしたいのです。

 平凡に生きていれば、自分の目に映る人間は大体真っ当な顔をしていて、暗く薄汚れた、あるいはドロドロと澱んだ感覚は自分だけが握っているような気がしてしまいます。ところが、社会でうまくやっていくなら嘘八百、正直者であればあるほど馬鹿を見る。本能的で醜いといわれるような感情って誰しもが持っているのだと思うのです。それを偽って、まるで真人間のような顔をしている。だから、汚れた自分が孤独に見える。

 人間と人生に対する、残酷で、鮮やかで、正直すぎる感覚が、「平成ピストルショウ」には存在します。真っ向から立ち向かった作品であるからこそ、毒となって心臓をくすぐる。この毒は、本当ならどんな人間にも刺さるのだけれど、世間の人間はまるで毒を知らぬ顔で生きているので、この毒は孤独な自分だけのものだと錯覚するのではなかろうか、そしてそれがこの作品への恋する感覚なのではないかと思うのです。

 主人公は和風ロリータを愛するゲイの殺し屋。自分を裏切った元恋人を殺すために銃を握る。奇天烈ファンタジーに見えるのは彼の主観であって、実態は被虐待児、売り専として働き病気を患い、恋人に銃を突きつけたが返り討ちに遭い死亡。一人の、鮮烈で、情熱的で、目まぐるしく、それでいて人間として正直な人生を、極彩色と歌と百面相の世界の中で描かれれば、それを目にした人は否応なしに、彼の残酷かつ幸福な、汚泥の中にあるようで星空に輝くような、そういった人生を痛切に感じてしまうのです。

 誰もがこの強烈な毒を「自らのもの」だと錯覚しているだけで、本当は人間に正直な存在全てに向けたエンターテイメント…それがこの作品の正体なのではないかと思います。ぱるん氏のブログでは「万人に楽しんでもらえるもの」として作ったと仰っておりましたが、まさに万人に対して、人間に対して正直すぎた結果なのではないか、と思ったりしている次第です。

 

(ネタバレ)実はその物語も平凡かもしれない

 主人公ハートの人生は過酷かつ強烈で波乱万丈、おそらく多くの人にとっては稀有なものに感じられるに違いありません。しかし、言うならばすべての人間は全く別の人生を送っているので、異なる人生なんて世間のどこにでも転がっていますし、それぞれにドラマがあるわけです。親も、兄弟も、友人も、みんな別の人生を過ごしているのですから。そういう意味では、何が特別ということもなく、平成ピストルショウで描かれたのは一人の人間の人生の顛末に過ぎないという風に思えます。

 そう考えれば、主人公ハートは特別な人間ではありません。もちろん、自分にとっての自分自身は特別な人間ですから、ハートにとってのハートは特別ではあるし、だからこそ彼の主観の世界はあんなにも鮮やかなのですが、傍から見ればお姫さまに憧れる男の子は不幸に見えるだけのただただ平凡な人間なのです。

 彼は過酷な運命や環境の中で、人間らしい感情を抱きながら、生きていた。ただ、生きて、死んでいっただけであり、そんな彼は幸せだった。彼の必死の生き方に、脚色や演出が加えられ、「平成史上最大薔薇色幸福見世物人生」として上映されている。それが「平成ピストルショウ」という作品ではありませんか。

 平凡な人間の人生を、こうも「人を選ぶ」と言わしめるような作品に仕立て上げ、あらゆる人間の持つ毒を駆り立てて、どろりと煮詰める。これが作者の行ったこと、表現したものなのであり、この作品の優れた点はなかろうかと思っています。どこにでもいる当たり前の人間、しかし誰にも理解の許さない唯一無二の存在である人間の抱えるズレに色を流し込んで、まるで珍奇なように見せかける。だからこそ、この作品の毒はきっと誰にでも「伝わる」のだと思いますし、そういう意味で、この作品は「万人向け」でしょう。

 もちろんその毒にくすぐられることを拒む人間もいるのでしょうが、それこそが好みの問題で、これは国民的王道RPGですら好みのふるいにかけられるのと何ら変わりないのだと思います。在り方が伝わったうえで、受け入れられるか、拒絶されるかの話ですから、でたらめな体たらくで存在しているのとはわけが違うのです。もちろん、そんな初歩的なレベルで語ることではないと思うのですが、「人を選ぶ」というのが特異なポイントとして語られるほどのものではない、という意味で書き添えておきます。

 

(まとめ)それでも自分は作品に恋をした

 ぱるん氏が亡くなられてから大分たちますが、訃報を知ったときの何とも言い難い感情を今一度思い出して、未だに何も言葉にはできないなあと思いながらも、でも平成ピストルショウの何が素晴らしいかを語ることは許されたいと思って、こういう文章になりました。

 自分は氏の作品が好きでしたが、その全てを遊びつくしたわけではないですし、人を知るわけでもありませんし、一人のファンだった存在にすぎません。ただ、平成ピストルショウという作品から様々な思いを与えられ、これが自分にとって大切な作品になったというのは事実ですし、この作品が本当にかけがえのないものだと思っています。

 あまねくすべての人間のための見世物的作品なのだろうと自分の中で結論付けたところで、それでもやっぱりこの作品と出会うことができて、このように自分の心に収めたいと思えるのは、やっぱりこの作品に選ばれて、この作品に恋をしたからだろうなんて、詩的なことを言いたい気持ちは止みません。そして、そういう感情もきっとこの作品を愛するファンならみんな持っているんじゃないかなって思ったりもするわけです。きっとみんな人間だからね。

 平成がひと段落して、ハートの人生は確かに「平成史上最大薔薇色幸福見世物人生」という称号の間違いのないものになるのだろうと思います。そして、平成が終わっても「平成ピストルショウ」は存在し続け、人々の心臓を突き刺して、愛され続けてくれるのでしょう。少なくとも自分はそういうファンの一人であり続けたいと思う次第です。

 拙い文章ですが、心からの敬愛を添えて、終わりとさせていただきます。何かを感じた人は何度でも触れてみてね。