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主にゲームを遊び、他にも何か考えます

「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」 感想

 ネタバレあります。ご注意ください。

 

 

 余韻の深いゲームだった。去年遊んだ「Inscryption」や「Return of the Obra Dinn」の遊び終わりの感覚に近いかもしれない。

 この手のゲームは、クリア直後に何かを言おうとしてもいまいち薄っぺらいところしか触れられていない気がしてむず痒い。しかし時間をおいて体験が「しみてくる」と、徐々にそれらの感覚がしっくり・くっきりとしたものへと変わってくる。咀嚼と反芻によってすこしずつ体験の味わいが深まっていくような印象がある。そういう意味では、本作をつい数日前にクリアしたばかりの身にはその味わいはまだ浸透しきっているようには思えないのだけれども、強く感覚が残っているうちに感想をしたためておきたく、こうして文章にしている。(時間が経ちすぎるとそれはそれで印象が変質し過ぎてしまうので)

 

 実は「フィンチ家~」は自分でも購入したことを忘れており、いつのまにやらSwitchの購入済みソフトに含まれていた作品だったのだが、恐らくトレーラーの時点で先述の「~Obra Dinn」へのシンパシーを覚えて購入したのだろうと思う。そこにいた人々の末路を辿っていくという構造は奇しくも「~Obra Dinn」と類似した要素となっている。加えて、どちらも「手記」がキーワードになるのも面白いところだ。これらはあくまでも部分的な類似に留まるものであり、両者のゲーム性は大きく異なるわけだが、これらの形式的な共通点がどちらも「深い余韻」に寄与していることは大いに考え得る。

 思うに、深い余韻は空隙への興味から生まれているのだろう。作中に現れた因果の前後や背景といったおぼろげな部分への想像が止まなくなったときに、何とか目に見える経緯の筋を噛みほぐしてみようという気が生じ、作品への関心が深まっていく。こういった物欲しさ、より深部に向かってみたいという感情の昂ぶりは、プレイ中よりもプレイ後のほうが一層強く感じられる。

 「因果の背景」の具体例として、物語の舞台、「場」の持つ力は実に偉大だと思う。これについても「フィンチ家~」と「~Obra Dinn」に類似する点だった。前者は「奇妙な屋敷」、後者は「オブラ・ディン号」、どちらもまさにそのものが物言わずとも大いに語っている。ここに人が生きていたことを如実に示す精彩な作り込みによってプレイ中の臨場感をたかめ、プレイ後に恋しさすら与える。(この恋しさという言葉は「Inscryption」でボードゲームを楽しんだ時間に対して抱いた感情を言い表すにもぴったりかもしれない)

 

 余韻に対する概念的な話もほどほどに、「フィンチ家~」に対する感想を述べたい。

 この作品で特に強く印象に残るのは、やはりSwitchのソフトウェアアイコンにもなっている「奇妙な屋敷」である。違法建築とでも呼びたくなるような歪な家屋は一目見て「そりゃこんな実家めったに帰らんわ」といった趣で、非常に深く興味をひく。この屋根の上に張り出した小屋のような増築箇所に向けて、深く、高く、至り行くというのが、一本道で進行する本作の流れである。

 屋敷の外観の強烈なインパクトに負けじとさらなる「奇妙」を思わせるのは、その内装、ボンドのようなもので目張りされ板を打ち付けられたドアの数々だった。これには興味よりも不気味さや恐ろしさを強く覚えた。のぞき窓の向こうに広がるのは個性に溢れ幻想的にすら見える故人の私室で、その非現実的な風景もまた「真相」を求めるプレイヤーの現実的な態度を挫き不安を与える。主人公のエディスは秘密の通り道を介してこれらの開かずの間を通り抜けながら、それぞれの部屋に残された様々のドキュメントなどから部屋の主の末路に迫ることとなる。

 面白かったのは、それぞれの部屋に辿り着いてすぐと、その主の末路を見届けた後とでは、これら不安さすら覚えた私室への印象が変わる事だった。先述の覗き窓から覗いた時点でのぞわぞわとした感覚は、部屋に入ってすぐにはぬぐうことが出来ない。強い異物感を抱きながら、個人の末路を示す手掛かりを探すこととなる。そして、無事にその足掛かりに辿り着き、死とかけ離れた華々しさすら持つ追想シーンを経て再び部屋に戻ると、先ほどまでは余所余所しく思えた部屋が妙にしっくりくる空間へと変わるのである。ここに住んでいたのがどういう人物だったのかということが分かった途端に、居心地の悪かった居室は旧友のなつかしさを示すような温もりある空間に思えてくるのだ。

 探索が進むにつれてエディスは、自らの母や祖母あるいはほかの一族らが、いかに呪いを恐れ死から逃げ続けたかについて思い至る。プレイヤー自身もまた奇妙というより他ない死の追体験によって彼女と目線を重ね行き、その逃避の様には執念深さすら覚えるようになる。数多の封印と常軌を逸した建築はエディス自身の手記における樹形図の梢に向かうにつれていびつさと非現実性を増し、この建物の捻じ曲げられたあり様こそが滅びの運命から遠ざけようという意思の表れであることに気付かされる。

 加えて、物語の途中で明かされるエディス自身の現況、彼女が妊婦の身であるという事実もまた、この呪いの根深さを強く印象付ける。まさに何かにとりつかれたかのようにエディスの歩みは止まらず、運命づけられた結末に向かうように真っすぐに突き進み……プレイヤーはたったいま目の当たりにしていた全てがすでに結末を持った物語であることを思い出すこととなる。記憶力と勘に優れたプレイヤーであれば本作の構造はすぐに思い当たるものであったのかもしれないが、日をまたいでプレイした私にとってはハッとさせられる結末だった。

 最後のシーン。フィンチ家の生き残りは、果たして呪いを免れられたのだろうか。本作に登場するあらゆる幻想的な末路には「死」という結末が約束されている一方で、極めて現実的におもえるエンディングにはその答えが与えられているようには思えない。今のところ、私は答えを見出してはいない。ただ、一族の奇妙なドラマに対して不思議の親しみを抱えている。もちろん、あの奇妙な屋敷に対しても。

 

 総じて、この作品は死の累積によって成り立っているものであるにもかかわらず、作中の風景のほとんどは明るく、幻想的で、ワクワクする冒険のようにすら思えた。私が思うに、フィンチ家の人々には強い想像力・創造性が共通しているように見える。彼らの強いイマジネーションがそのまま溢れて形になったかのような結末の数々はプレイヤーを楽しませてくれる。一方で、それらのおもしろおかしい脚色をはぎ取ってみれば、それぞれの死因はダーウィン賞なんてものを思い出してしまうほどに、いかにも馬鹿げて愚かしいものばかりでもある。

 果たしてエディスの、あるいはイーディの思惑はどちらだったのだろうか。これら馬鹿げた末路の正体を暴くことだったのか、あるいは彼らの憐れな終末に親しみと愛情を与えることだったのか。いずれにしても、こういったアンバランスさが本作の暖かく切なくあっけない感覚に寄与しているように思われた。

 

 惜しむらくは本作は非常に画面酔いしやすいということ。初見プレイ時は1時間遊び続けることすら叶わず、別日に酔い止めを飲みながらクリアまでこぎつけた。私は今でも時たま「オブラ・ディン号」を眺めに行ってはあれやこれやと考えることもあるのだが、フィンチ家の屋敷についてはこのプレイのしづらさが障壁となってしまい、なかなか「もう一度遊びに行くか」という気持ちになれないのが残念なところ。とはいえ、薬に頼りながらでも本作をプレイできたのは良い体験になったと思っている。